今日の福音箇所では、いくつかのイエスの言葉が一つの話の中で展開されている形となっています。この話の中では、「盲人の道案内」、「弟子と師」、「丸太とおが屑の例え」そして「木とその実の例え」という4つの教えが語られていることがわかります。
弟子たちに対して語られたこれらの教えは「イエスの弟子としてどう生きるべきか」という共通したテーマに沿っていると思われます。その中でも、弟子たちだけでなく、イエスに倣って生きることを望む私たち一人ひとりのキリスト者にも希望となる言葉が40節にある「だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」という一文に見られます。弟子たちにとって、そして私たちにとっても、師とは当然イエスを指しますが、師であるイエスのようになることは容易に達成できるものではありません。そうなれるように少しでも近づくためにどう生きたら良いのかという教え、いわば修行の方法が、今日の福音箇所で示されていると言えます。
人間にとって、目標とするものはそれぞれですが、誰もが無事に達成できるわけではありません。生きている中では自分自身だけでなく、周りの様々な事情もあり、断念せざるを得ないことも往々にしてあります。それだけに、一つの目標を達成できることは素晴らしいことです。私たちは、どんな目標や目指すべき人物像を掲げるときにも、必ず「そうなりたい」と強く願います。この初心とも言うべき最初の強い願いを持ち続けられるかどうかは、それぞれの生き方次第ですが、少なくともキリスト者である私たちには、弟子たちとも共通する「師イエス」のようになることを願い求めています。もし、心でそう願うことを忘れてしまっているのであれば、どんな祈りも教えも、自分の中には浸透せず、ただ単に言葉だけが残ってしまうでしょう。そうではなく、自分はキリスト者として、何を目指しているのか、どういう生き方をすべきなのか、そのためにどういう教えを実践すべきなのか、何のために日々の祈りや典礼に参加しているのか、今日の福音箇所におけるイエスの言葉から、私たちは改めて自分がキリスト者であることを思い起こしながら、師であるイエスの姿を追い続けることを目指していきたいものです。
私たちの目指す生き方は、完璧にこなさなければ無意味だ、というものではありません。もちろん、完璧にできるのであればそれは理想ですが、人間という弱い生き物が、神であるイエスと完璧に並ぶことはできないものです。しかし、できないからやらない、で終わることなく、私たちにできることを少しずつでも実践していくことが、イエスに近づく一番の道であるのです。弟子たちが多くの仲間と共にその道を歩んだように、私たちも同じ道を歩もうとする教会共同体の仲間と共に、イエスの後を進んで行くことができるように、その助けを神に願いながら、毎日を過ごしていきましょう。