死というものは、唯一、誰も避られない現実であり、また普遍的であり、同時に深く個人的なものであります。そのため、人の一生において、おそらく最も大きな試練として私たちに立ちはだかるものです。
しかし、自らの死を自覚する時や特別な人を失う時までは、人間は死を体験するということはありません。ですから死は実に未知なるものであります。その未知なるものへの深く絡み合った感情とに直面し、向き合うことになるわけです。死は未来への計画やこれまでの人間関係、または支配欲から私たちを切り離し、人間の生命の脆さをあらわにします。その時です、「自分が誰にも頼らず自力で生きてきたのではない」ということに気付かされるのです。
皆さんも様々な経験をお持ちと思います。私にとっては父の死でした。
父が病に倒れた時、私の世界はひっくり返りました。父は圧倒的な存在感と強さを備えた人であったため、若くで亡くなるなど、想像もしていませんでした。あらゆる技術や進歩にもかかわらず、依然として私たちのコントロール域を超えた問題が存在します。命には終わりがあり、それに対して人間ができることは何もないのです。当時、私は恐怖と怒りと悲嘆とに暮れ、様々な感情で心が乱れたのを覚えています。
しかし父が段々痩せ衰えていく姿を見ている時、私の心を捉えたのは、父が神と対面する準備を整えている姿でした。ホスピスの礼拝堂で祈る父の姿、神の前でのその姿をよく見かけたのです。年配の司祭が父の葬儀の説教の中で、これまで、多くの葬儀を行ったが、この人ほど、死に備えた人に出会ったのは初めてであると語りました。私は悲しみに打ちひしがれていましたが、父をさらに誇りに思い、信仰がいかに大切であるかを新たに気づかせてくれました。父は「イエス様の言葉に完全に信頼を寄せて死ぬ方法」を、私たちに示してくれたのです。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」
イエス様はまた私たちにこう言われます「終わりの日に復活させる」。これは単なる慰めの言葉ではなく、神の約束であります。私たち信徒にとって復活は未来の出来事であると同時に、今ここで信じる者に力を与える現実のものであります。永遠の命は今、地上ですでに始まっている神との交わりなのです。
父とのこの経験は、自らの死に向き合う難しさだけでなく、他の方の最期に寄り添う恵みをも教えてくれました。司祭や助祭にとって、死にゆく方の枕元に立ち、悲しむ人たちを慰める「信仰の言葉」をかける機会というのは、大きな祝福であります。父との経験はまた、繰り返しますが、信仰は非常に重要であることを私に教えてくれました。その影響は大きく、長年にわたり教会から離れていた私と兄弟を信仰へと戻したのです。
つまり、死は私たちに生き方を教え・生き方を変えるよう招くものです。カトリックの伝統にはラテン語で「メメント・モリ(memento mori)」・「汝は必ず死ぬことを覚えよ」という言葉があります。これは決して私たちを萎縮させるためではなく、人生の深さとその緊迫性に目覚めさせるためです。
それは、この世での私たちの時間は、限られているということ、そしてこの世での与えられた時間は大変 貴重なものであることの教えです。それゆえ、生涯、愛と正義を行い、和解をしながら人生の旅を歩み続けるのです。まずは私たちの大切な人々、家族には特に意識して行なうという、まさに状況、時宜を得た警告です。これらのすべては、私たちの信仰によって支えられています。
教会においての死者の日の意味は、死は終わりではなく、復活への通過点であることを思い起こされます。死者の日は亡くなった人々のために祈る日であると同時に、自分自身の死と復活を見つめる日でもあります。そして祈りとミサを通して、亡くなった人々と私たちはキリストにおいて結ばれていることを心と思いに刻まされます。
今日のこの特別な日に、先に逝き、自らの命を捧げて私たちのより良い未来を築いてくださったすべての人々のために、感謝の祈りを捧げます。これからも、どうか私たちを導き、永遠の命の約束を常に心に留めさせてください。そうすれば、恐れに囚われることなく、どうすることもできない事を常に心配することがなくなるでしょう。どうか、一日一日を贈り物と思い、あらゆる関係を神聖なものとして受け止めさせてください。そして、私たちがされたいように、他の人にも思いやりと赦しと愛をもって接することができますように。
クリスチャンとして最も大切なのは、「永遠の命に生きる希望をもって日々を歩む」ことなのです。