Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第3主日

2026年01月25日

福音箇所 マタイ 4・12-23

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

メッセージ

担当者 石川地区 片岡 義博 神父

社会人になって営業の仕事をしていたころの話です。まだ自分が「司祭になる」などとは、これっぽっちも思っていなかった頃のことです。
富士山を間近に望むことのできる山中湖の近くにある黙想の家で、ある青年グループの合宿に参加していました。湖畔をみんなで散歩し、穏やかな時間を楽しんでいた、その最中のことです。
突然、仕事の取引先からクレームの電話が入りました。慌てて列を外れ、携帯電話で対応すること30分以上。ようやく話が落ち着いて合流すると、仲間たちから冗談半分にこう言われました。
「もう携帯を捨ててさ、人間を捕る営業マンにでもなったら?」
山中湖らしい、笑い混じりの一言でしたが、不思議とその言葉は、今も心に残っています。
現代的に言えば、「人間をとる営業マン」。そう考えると、司祭もある意味では“営業マン”なのかもしれません(笑)。
今日の福音では、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという4人の漁師が、イエスに弟子として呼ばれる場面が語られます。この箇所を読むたびに、あの山中湖での出来事が思い出されるのです。
後から振り返ると、あの体験は、「司祭」という生き方を考え始める、ひとつのきっかけだったのかもしれません。もっとも、神学校に入ったときは、「本当に携帯を捨てて神学校に行った」と、仲間から散々な言われようでしたが(笑)。
 この福音の場面で印象的なのは、イエスの呼びかけの言葉です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」
イエスは、「漁師をやめなさい」とは言われません。「今までの仕事はつまらない」「世俗的で価値がない」などとは、一言も言っていないのです。
むしろ、こう言っているように聞こえます。「あなたは、すでに立派な漁師だ。そのあなたのままで、今度は人を生かす漁師にならないか。」
「漁師」から「漁師」へ。一見、何も変わっていないようでいて、そこから新しい段階が始まる。これこそが、召命(呼びかけ)の本質ではないでしょうか。
人は、そう簡単に性格が変わるものではありません。良いところも、弱さも、環境も、すぐには変わらない。それでも、神の呼びかけを受けるとき、人は新しいレベルに招かれます。
神学校時代の仲間たちと今も話すことがありますが、正直に言えば、みんな性格は当時のままです。けれども、弱さや苦手な部分を抱えながらも、それぞれの賜物が生かされている司祭生活は、生き生きとしています。

召命とは、「今までの人生は間違っていたから、すべて捨ててやり直す」ことではありません。これまで一生懸命生きてきた人生そのものが、まるごと新しい段階に入る――それが、イエスの呼びかけなのです。
洗礼を受けるとき、教会の役割を引き受けるとき、多くの人がこう言われます。
「自分なんて、まだふさわしくありません」
「理解が足りないので、もう少し先で……」
とても日本人らしい、誠実な言葉だと思います。けれども、ではいつになったら「十分にふさわしく」なれるのでしょうか。
「私はもう十分にキリスト者として完成しています」と胸を張って言える人は、きっといないでしょう。
だからこそ、私たちはこう言えるのだと思います。ふさわしくなくても、理解が足りなくても、神が呼んでくださったから、今ここにいる。
召命とは、まず「何も変わらない」こと。そして同時に、「新しい段階が始まる」ことなのです。
福音の冒頭で、イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられたことを聞き、ガリラヤへ退かれたと記されています。
当時、ガリラヤはエルサレムの人々から見れば、辺境の地でした。言葉もなまり、見下され、差別の目で見られていた地域です。
もし新しい運動を始めるなら、宗教と権力の中心であるエルサレムの近くのほうが、ずっと有利だったかもしれません。それでもイエスは、富や繁栄、宗教的エリートから遠く離れたガリラヤで、神の国の福音を語り始められました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
それは、忘れられ、切り離された場所に生きる一人ひとりを、決して見捨てないという宣言でした。あなたのところにも、神の国は近づいている――それが福音、希望の知らせだったのです。
この呼びかけは、弟子たちだけに向けられたものではありません。今日を生きる、私たち一人ひとりにも向けられています。
悔い改めとは、自分の貧しさ、悲しさ、弱さに気づくこと。そして、それらを抱えたまま、神に委ねることです。
本気で受け取り、本気で応えるとき、神の国は私たちの中に、そして私たちを通して、静かに実現していきます。
その恵みと希望を、ともに願い、ともに歩んでいきましょう。